薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

超特急寿司

 

 昨夜から孫連れで息子がやって来て、先ほど夕飯を食べて帰って行った。

 ジジババは、二人の孫の悪ふざけに付き合って、楽しんだわけだ。息子は息子で実家で一息つけたというわけである。

 あれから12年経って、こんな一日を過ごせたは、なんとも申し訳ない気がしてくる。

 

 今夜の夕飯は、回転寿司でということになった。車で10分ほどのところ、駐車場は満車状態で、駐車にしばらく迷った。こんな暖かい春の日曜日、後楽園球場のお祭り騒ぎを余所に、回転寿司店は順番待ちの大混雑であった。

 この店は、この万事値上がりのご時世に、税込110円皿のメニューの維持に健闘していることで、自分ら年金生活者の客も足繁く通うことだってできる。そういう店だから、食いざかりを子供のいる家族連れやおしゃべりしながら一杯というような若者グループで、今夜も満席であった。

 

 昔々の自分は、回転寿司なんてと、やや軽んずるようなところがあった。が、いつ頃からか、回転寿司屋が好きになっていた。もともと、グルメ志向など微塵もない人である自分に、職人さんの顔色をチラ見しつつカウンターでつまもうが、レールの上を運ばれてくるお皿を慌てて取り上げたりしていようが、結局は胃の腑に落ちてゆくのに、どの程度の違いがあろうか。値段相応の旨さという点では、回転寿司は激しい競争下にあるだけに企業努力も半端ない、侮る理由など見当たらないのだ。

 以前は、ことに触れて町内の寿司屋に出前を頼んだが、その寿司屋も閉店した。鄙びた店主で、シャリがたっぷりで本当に満腹間違いなしの、それはそれでよかったものだ。それと比較すれば、行きつけの一皿110円の方が、はるかに洗練されている。そんなこともあるのだ。昔ながらの寿司屋さんが苦戦するのも気の毒だが、仕方ない。それに、以前ドキュメント映画で拝見した人間国宝級の職人さんも尊いことではありますが、それは庶民のあずかり知らぬことなのだ。わが国が誇る和食文化とは、どのあたりを水準としているのか、自分などにはまったくわかりませんので。

 

 確かに高級な食通志向はどこかで健在なのであろうが、自分にはかかわりない。手軽に気楽な回転寿司の一皿110円で、普通に満足である。この頃は、注文をタブレットでする、当然孫たちは触りたがる、でもタブレットを預けたところで、そこは単価が手ごろ、それもよし。

 

 ついでにいえば、この店は回転するレーンはなくて、新幹線型の電車が、特急で寿司を運んでくる、でも、店の名は伏せる。

 

 

朧夜や一皿110円うれしかり  泡六

 

一皿に白魚二貫おもひあれ

 

親子して皿重ね上ぐ春の星