薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

老いぼれ男子、厨房に立つ、悦ばしからずや。

 リタイヤ生活に入るにあたって、妻との間に家事分担の話し合いがあった。結果は、三度の食事の調理にかぎり、夫である自分の役割ということで、決着した。

 もともと、長年独身生活を送った経験があるので、炊事をすることに抵抗はなかったというのは、嘘だ、外食専門だった。とにかく、日々三度の食事となると内心おおいに躊躇したのだが、掃除洗濯買い物、その他の細々とした諸事万端は妻に全部押し付けるられる、イヤ任せることができるなら、それはそれでこれから生涯休日に入る身としては、悪くないと受け入れたのである。それに、もしも連れ合いに先立たれたら、衣食住の内で垢では死なないが、飢えれば死ぬ。雨風凌げる家はあるから、先ず「食う」ことはせねばならない、であれば選択に余地はないのであった。

 調理といっても、面倒くさく手の込んだものはできないが、iPadをキッチンテーブルに置いて、妻が買ってきたものやら、畑から収穫しものやら、それらの食材を組み合わせて、検索すれば、ほぼすべてメニューと調理法を教えてくれる。そこから、自分の口に合いそうなものを、教えられる通りにほぼ忠実に作れば、7割方はヒットできる。勿論、自分の力及ばずいうことも、こんなはずではなかろうということも、当然ある。それが、2割ほど。残り一割は、自分のミスによる失敗、これが1割、ざっくりそういう感じだと思う。

 既に完全リタイヤして、10年になる。10年間も日々飯づくりに取り組んでいると、それなりに習熟する。それに対して、連れ合いは、こと食事作りに対しては明らかに腕前は退化している。時折手伝いにキッチンに立つことがあるが、自信を無くしていると受けととれる挙動がみてとれる。内心、ほくそ笑むということが無きにしも非ずということか。

 にもかかわらず、この頃妙に味にうるさくなってきた、こしゃくである。かつての己に夫が飯の味について批評したことがあろうか、よくよく胸に手を当てて思い起こせよと。

 とにかく、飯づくりに、日々3時間は要する。別に苦ではない。自分の食べたいものを自分で作ることができるというのは、悪くないことだ。

 

 

米洗ふ老いの夕べや水温し   泡六