薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

天道虫

 テントウムシは、昆虫のなかでも人に愛されやすいように思われる。

 一昔前、結婚式での定番で「てんとう虫のサンバ」という曲が歌われていた。

 

 畑での作業を終えて、帰りがけにカモミールの繁りに目がゆくと、テントウムシが重なっていた。

 

 

 

 

命継ぐ天道虫の静けさや   

 

 万の生き物の命は引き継がれてゆく、その中で人のみが自滅してゆくのかも知れない。命を粗末にするのは、人だけである。ジュノサイドということばが、今もって現実のものであるのだから。

高齢者講習を終えて。

 一昨日は、目覚めると雨が降っていた。午前中、一時雪に変わって、それからまたしとしと降る雨に。

 

  午後から、免許更新の条件になっている実技講習にいった。

 その頃には、雨は上がっていたが、憂鬱な曇り空である。


  十三人の受講者に言い渡されたのは、一切の私語が禁止だということ。全員が後期高齢者、お一人は八十歳を超えているようだ。そんなジジババに三時間も口をきくのを禁止するとは、どういうものか。休憩時間もない。トイレに行くにも、係員へ一声かけてゆくのだ。

 実際に運転するのは、一人十五分ほどで、後はあDVDの視聴覚教材を延々と視る。その間に、簡易な視力の検査やらなにやらがある。DVDで間を繋ぐ中、十三人が次々と呼び出されて、検査や実車指導を受けるある。拘束時間の殆どは、DVDを視ることである。時折、解説が口頭である。

 確かに認知機能検査から実技指導までの間、高齢者の運転には、とんでないほどの危険性がるのだと、警告されている気がしてくる。
 そうとは言え、田舎住まいの老人にとって、自動車免許の保持はある意味死活問題にも通じる。足腰がおぼつかなくなればなるほど、足替わりの車は必要になる。車に取って代われる交通機関がないことないが、不便極まりないものになるのだ。安心便利な代替えがない限りおいそれと返納はできないのだ。

 自分もまごうことなき老人であるが、年寄りばかりの教習風景には、いろいろと考えさせられたのであった。

 ようやく帰宅できた時には、とっくに日が暮れていた。

 

春寒や老十三人の受講生 泡六

 

 

 

認知機能検査に行ってきた。

一昨日のことだ。

 

 その朝も今朝のようにしとしと細い雨が降っていたが、昼前にはやんだが、憂鬱な曇り空。

 あんな天気の日が一番の嫌いだ。

 そんな日が、運転免許の更新に必要な認知機能検査の当日であった。

 雨の朝は、それでなくても渋滞しがちだ。朝早くに外出することの用のない日々であるから、朝8時に家を出たのは久しぶりだ。9時10分集合であるが、道路状況を思って早めに出た、それでも渋滞にあって、ようやく10分前に到着した。普段の日中であれば、20分足らずで着くはずである。

 駐車場にはいると既に先着の人たちが、傘をさして佇む人もいる。当然のことだが、皆高齢者、とはいえ、ちょとは幅があった。

 昔ある自動車教習所が会場である。少しは手を入れてあるが、古びた建物で、河川敷が実技講習場になっている。

 自分は四〇歳を過ぎてから、運転免許証を取得した。講習場は都内であったから、ここは初めてだ。

 

 さて、認知機能検査であるが七五歳になる高齢者に課せられた検査である。

正直言うと、高をくくっていた。ご近所のあのずっと年上の皆さんだって通過したのだ。たいしたものではなろうと。そんな調子で試験日もうかっリ忘れかけていて、二日前にふと思い出した。そんな調子であったが、前日前夜になって、多少の事前知識も必要だろうと、ネットを覗いた。すると、なんとまあ、落第する人いるらしいことが警告されている。

 認知機能検査についてこと細かに解説があり、それをどうすれば無事通過できるか、さまざまな対策があげられていた。まったく、おおごとのようだ。とにかく、暗記の努力がいるようでないか。内心、びびった。

 記憶力の低下は、我が一番自覚している。此れは困ったと、懼れつつYouTubeで練習問題に取り組んでみた。さて、その結果はまったくできない。あきれるほどだ。

 暗記には、手を同時に動かすこと、昔一夜漬けに効果があった気がする。そこでやってみた。だが、まったく、脳みそにしみ込んでこない。

しかたない、生半可に憶えると反って混乱する、止めた止めたとなった。

 

 翌朝、女房に「俺、認知症かも」というと、「べつにいいんじゃない」と軽く流された。不思議とその態度で、気が楽になった。

 

 さて、検査結果は事なきを得て、「認知症とされる基準に至りませんでした」という証明書を得た。認知症でなくて残念でした、そんな風にも読めなくもないなあと、思った。

 

 

 

 検査の実際については、こんなところで書くのは不適切だろうから、書かないのである。

 そうして、今日は午後から実技講習だという

 天気は全くよくない。雪までちらつくとか、まったくもってやれやれだ。

 

 

老いゆえの制度の枷や春寒し  泡六

 

 

 

 

 

腰痛沈静中につき映画「PERFECT DAYS」のこと

 今日は朝から曇り、今は霧雨がおりている。

 ぎっくり腰は快方に向かっているが、案外薄ら寒い今日のような日は、警戒すべきだ。ぎっきり腰と天候には相関関係がありそうだと、自分は睨んでいる。

 春一番が吹いた日に書きかけたのを、本日の分にしよう。

 

 映画館で一番最近観たのは「PERFECT DAYS」。

 観てから2週間以上も経ったので、半ば以上は忘れている。

 でも、まだなんとなく、消え残っている印象があるので、試しに書いてみよう。

 

 役所広司が演じている主人公の平山は、日々身についたルーティンに基づいて生活している。一日の活動の中心は、公共トイレの清掃員として職務を全うすることである。起床から就寝までなすことが決まっている、というより、生活の自然な流れとして繰り返されている。なんとなくお寺の修行僧みたいだと初めは思ったが、そういうものでない。坊さんは僧侶としてのアイデンティティを求めてそうしている。それは、「悟り」かも知れない。しかし、平山からそういう感じは受けなかった。求めることなど無さそうなのだ。

 とにかく人は、「よりよくなりたい」ということを望みがちなものだ。その内容は、人それぞれだが、平山には「よりましな人へ、より価値あるひとへ」という志向もみられない。ただ、平山という人がいる、そういう感じだ。

 それでも観客の目には、平山をすぐれて善き人と映るだろう。

 公共トイレの清掃を誠心誠意務める、規則正しい、質素の生活に足ることを知っている生活ぶり、礼儀正しく人との距離を測れる人、自己主張は控えめ、自分は孤独であるが、誰に対しても関係を大切にできる。そうして、ささやかにして力のある自然の営みに目を向けて、感じること。

 平山はそういう人として、スクリーンに登場して、物語の日常に多少の波風はあっても、そういう人として映画はエンディングを迎える。平山はどいう紆余曲折があって、そういう人となりを形成したのか、そうして今後はどうなってゆくのかも、映画では明らかにされない。平山の出自について、姪の登場で多少のヒントめいたことが伝わってくるが、観客のは具体的なことは知らされない。つまり、観客にとっては平山は謎のある人物なのだが、そこに主人公への存在のある深みが付与される。

 ともあれ観客は、見終えて、多分大抵の人は暖かい気持ちになって、席を立つ。たぶん、平山のような人物がきっとこの世に実在しているはずだ、そうであれば、この糞世知辛い世界も捨てたものでないと、そんな気にしてもらって、・・・。

 まことに、「PERFECT DAYS」。

 

 おとぎ話。

  

 いいことだけ、書いておく。いいことだけ、云ってみたい気がするので。

 

 

春一番余命の路地のどん詰まり     泡六

 

妻も春おーい「あまりん」まだあるや

 

 

 「あまりん」というあたらしい品種は、まだ埼玉県内限定で、他県へは出荷されていないそうな。その埼玉県内でも、とても希少、それが偶然に入手できた。妻は大喜び。確かにおいしいのだが、他の苺とどの辺が違うのか、小生の舌ではわからないのだが。