薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

腰痛沈静中につき映画「PERFECT DAYS」のこと

 今日は朝から曇り、今は霧雨がおりている。

 ぎっくり腰は快方に向かっているが、案外薄ら寒い今日のような日は、警戒すべきだ。ぎっきり腰と天候には相関関係がありそうだと、自分は睨んでいる。

 春一番が吹いた日に書きかけたのを、本日の分にしよう。

 

 映画館で一番最近観たのは「PERFECT DAYS」。

 観てから2週間以上も経ったので、半ば以上は忘れている。

 でも、まだなんとなく、消え残っている印象があるので、試しに書いてみよう。

 

 役所広司が演じている主人公の平山は、日々身についたルーティンに基づいて生活している。一日の活動の中心は、公共トイレの清掃員として職務を全うすることである。起床から就寝までなすことが決まっている、というより、生活の自然な流れとして繰り返されている。なんとなくお寺の修行僧みたいだと初めは思ったが、そういうものでない。坊さんは僧侶としてのアイデンティティを求めてそうしている。それは、「悟り」かも知れない。しかし、平山からそういう感じは受けなかった。求めることなど無さそうなのだ。

 とにかく人は、「よりよくなりたい」ということを望みがちなものだ。その内容は、人それぞれだが、平山には「よりましな人へ、より価値あるひとへ」という志向もみられない。ただ、平山という人がいる、そういう感じだ。

 それでも観客の目には、平山をすぐれて善き人と映るだろう。

 公共トイレの清掃を誠心誠意務める、規則正しい、質素の生活に足ることを知っている生活ぶり、礼儀正しく人との距離を測れる人、自己主張は控えめ、自分は孤独であるが、誰に対しても関係を大切にできる。そうして、ささやかにして力のある自然の営みに目を向けて、感じること。

 平山はそういう人として、スクリーンに登場して、物語の日常に多少の波風はあっても、そういう人として映画はエンディングを迎える。平山はどいう紆余曲折があって、そういう人となりを形成したのか、そうして今後はどうなってゆくのかも、映画では明らかにされない。平山の出自について、姪の登場で多少のヒントめいたことが伝わってくるが、観客のは具体的なことは知らされない。つまり、観客にとっては平山は謎のある人物なのだが、そこに主人公への存在のある深みが付与される。

 ともあれ観客は、見終えて、多分大抵の人は暖かい気持ちになって、席を立つ。たぶん、平山のような人物がきっとこの世に実在しているはずだ、そうであれば、この糞世知辛い世界も捨てたものでないと、そんな気にしてもらって、・・・。

 まことに、「PERFECT DAYS」。

 

 おとぎ話。

  

 いいことだけ、書いておく。いいことだけ、云ってみたい気がするので。

 

 

春一番余命の路地のどん詰まり     泡六

 

妻も春おーい「あまりん」まだあるや

 

 

 「あまりん」というあたらしい品種は、まだ埼玉県内限定で、他県へは出荷されていないそうな。その埼玉県内でも、とても希少、それが偶然に入手できた。妻は大喜び。確かにおいしいのだが、他の苺とどの辺が違うのか、小生の舌ではわからないのだが。