薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

腰痛の春の昼下がりに

 

 腰痛は、不意にやってくる。

 昨晩、夕食後いつものようにごろりと横なって、テレビを観ているうちに、尿意を感じて、トイレに行こうかと、上半身をもちあげかけた瞬間、腰から背に違和感があって、あれっと思った時、あの腰痛に特有な痛みを感じた。

 この種の腰痛を「ぎっくり腰」と呼んでいるが、「ぎっくり」という語感はふさわしくない。このごろの痛みは緩やかに広がる。確かに、初めての腰痛に見舞われた時は、一瞬でノックアウトされた、はいつくばった。しかし、あれから30年余り、何度となく見舞われてきた。そうして、その間に徐々に痛み具合いに変化があった。いうなれば、「痛み」も老いてゆく、そんな感じだ。今や、痛烈なパンチ力はなくて、じんわりとそれも執拗な粘りのある痛みに変わってきた。それに、痛いのは腰部というより腰の上の背筋の部分である。

 そうであるから、刺激せぬようこわごわと風呂に浸かって、すぐさま蒲団に入った。これまでの経験から安静にすること、これが何より早期の恢復に求めれることだと知っている。

 幸い今夜の腰痛は、まだ身体運動を瓦解させるレベルには遠い。うまくすれば、明朝立ち上げれないほどにならないだろうと思われた。

 その見込みはおおむね正しく、今現在寝たきりは避けられ、椅子に座ってこうしてキーボードも叩けている。もうしばらくの安静こそ重要なのだ。

 

 今日もうららかに晴れあがってきた。

 静かだ。

 昼下がり。

 

 

 

 

腰痛の一歩の先にシクラメン 泡六

 

 

今夜も梅の話、おまけに苺の話

気温なら4月の陽気だとニュースが云うので、古女房が梅を見たいと言い出した。

それではと、つい行き馴れた森林公園の梅林の開花具合はどうかと気になったので、コンビニでお握りを調達して、見物に。

まだ、梅林全体では四分か、五分とは云えない、勿論木ごとに違いがある。

 

 

 温かいを越えて、暑い。

 皆さん、上着を脱いで、くつろいでいた。

 お握りを食べ、お菓子を食べ、老夫婦は遠足気分で一時を過ごした。

 

 

 梅が花最中の皮の砕け散る    泡六

 

 紅梅の枝をくぐるや知りし人

 

 帰り道、埼玉県では有名な吉見町のJA産物販売所で苺を買った。ここでは農家さんが搬入するのを待って、お客さんが争奪戦に突入するという噂だった。午後三時前に店に着くと、苺の棚はきれいさっぱり空っぽだった。本日完売の紙がぺろりとあった。しかたなく、他の野菜なんぞを見ていると、豈図らんや一人の農家さんが、搬入してきたのだった。すると、一斉に店内のお客さんが移動してきた。箱詰め苺が並び始めると、我先と品定めの前に先ず品物を確保し始めた。

 我が古女房はこういう時には抜かりのない方であるから、四パック入り、二パック入り、一パック単体の三種類をちゃっかり手元に確保した。それから、品物をチェックしている。エライものだ。

 気にいったものを、購入して、帰ろうとすると、ソフトクリームの看板に気づいた。彼女は、苺ソフトクリーム、小生は苺ソーダー。ソーダーは、美味であったが、甘すぎたので少し残した、そのため近くの花壇の土がしめったはずだ。

 苺ソーダーのバレンタインディでよかったねと、古女房はのたもうた。

 先ほど購入した苺も「あまりん」とかいう品種で、なかなか手に入りづらいらしいとのことであった。

 

セントバレンタインデー「あまりん」五粒甘し 

 

 

梅の花が咲いた。

 旧暦で云うと、今月一〇日が元旦であるから、今日は正月三日にあたる。

 「梅香る新春」というイメージは、年賀状のデザインによくある。梅は早春に咲くので、そういうことになるのだろう。

 実際、旧暦社会であったなら今頃から梅の花見の季節になるのだから、新年の時候の挨拶にはもってこいだったろう。

 

 旧暦の明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日に変更して、日本は新暦に改まったわけだが、そのことで人々の間に混乱のようなことは起きなかったのだろうか。その間の事情を、聞いたことがないが、なにやらいろいろあったような気がする。知っている人がいたら、聞きたいものだ。

 

 ともあれ、まことに梅が見頃になってきた。

 自分は、武蔵丘陵森林公園の梅園には、毎年出かけ行く。

 すでに一週間ほど前に覗いてきた、また今月の中頃に行ってみようと思っている。

 

武蔵丘陵森林公園・梅園

 

 

 

白梅のあと紅梅の深空あり 飯田龍太

 

 句はそういうが、先ず紅梅から咲き始め、白梅はそれに続くというのが、順番のような気がする。

 この句はそういうことではなく、梅園をぶらぶらと見物してたときの印象で、白梅を見た後に紅梅に出会うと、碧い空の深さが一層感じられるということかもしれない。確かに、梅の枝越しにみえる春の青空は、清らかに見えるのだ。さすがなものだ。

 

これでは、自分のへぼな句など、・・・・・、トホホだ。

 

 

jjisikoro.hatenablog.com

 

 

 

 

「ずぼら」の自分

 ボンヤリしている内に寒があけて、春になってしまった。

 その間、関東にも雪が降って、まだ庭先の日陰には溶け残った雪が見える。

やはり、生来のなまけ癖がでて、きちんきちんと日付をうって書くことは、無理のようだ。

 ここらで、ずぼらを決め込んで、のんびり更新してゆくことにしようと。そうでないと、開店休業で、このブロブも立切れになりそうだ。別にそうであっても、なくてもどうってことないが、まあ、惚け防止には少しはなるかもしれないので、もう少しやってみよう。

 句帖とは題しているが、いくらへぼな句であっても、屁のようには出てこない。だから、「薺の雑記帖」と変えてしまいたいのだが、そのままにしておこう。句の出ないことだって、それはあって当たり前だ。今年中に後期高齢者になるのだから、甘ったれた余生を送ろうと思うのだ。

 

フクジュソウ・2/10

 

思わぬ来客あり。

一月十一日(木) 曇りのち晴れ。最高気温も6℃、冷え冷えとした一日。

 

〇思わぬ来客あり。

 とは、メジロのつがいであった。

 小枝に刺してあった林檎にやって来た。

 

 

 ヒヨドリが餌を離れると、間髪を入れずにやって来る。

 ヒヨドリの戻ってくる羽音が聞こえるとさっと退いて、近くの山茶花の繁みに身を隠す。

 萎びた林檎の四分の一が、いくつかの命に関わるとは、驚きである。

 ヒヨドリも、一羽だけではなかった。もう一羽いた。

 これはどうやら、つがいではなさそうだ。

 二羽の関係が、剣呑そうに見えた。

 一方メジロは、繁殖期を問わずペアで暮らすと、聞いたことがある。

 その通り、仲良く林檎を啄んでいた。

 

 

 

冬空の碧く裂けたりメジロ来る  泡六