薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

迎え盆・うどん・「家」の姿

8月13日 晴れ・曇り・にわか雨、台風の影響空模様落ち着かず。

 

〇午前中、仏さんのお迎えをする準備。

 日ごろは、リビングに置かれた小さな仏壇に、花と水と飯を供えて、日に一度手を合わせる。以前は昔ながらの盆飾りを模倣しようとあれこれしたが、この頃は位牌を仏壇から出して、花と供物を置くだけの簡素なものなっている。

 子供の目の高さにあるので、孫たちが手を合わせて、「ノンノさん、なむなむ」をしてくれるのが、とてもうれしい。仏さんは我ら夫婦が失った幼子である。

 先ほどから、祖先を仏さんと呼んでいるが、これには違和感を持たれる人もいようが、自分としてはこれでよいし、仏さんである。

 

〇迎え盆へ、お寺まで。天気が天気であるので、いつもは日暮れに行くのだが、台風の余波の空模様が心配で昼過ぎに行った。誰でも同じことを考えると見えて、日中多数の人たちが墓参やらお迎えやら。

 

昼日中薄き燈明迎え盆  泡六

 

孫が作った精霊の牛?

 

8月14日 台風近畿地方へと接近中。当地もその影響でしきりに空を白い雲の塊が行きすぎる。

 

〇盆と正月は、一族郎党が本家に寄り集まって、日ごろの無沙汰を補う機会であった。しかし、核家族がもはや当たり前、本家分家のなどと云っても、肝心の本家が人寄せを出来ほどの力を持っていない。本家だ分家だなんていうのは、お笑い草の古さだと皆わかっているのだから、それもどうってことがない。大体祖父当たりの代で、家々のしきたり伝統なんてはた迷惑な縛り以外のものではないと、自分たちも感じていた。

 そういう意味で、伝統的な家族の形態は崩壊している。にもかかわらず、家名とやらに執着する同世代の女性が身近にいて、興味ぶかい。いまだに何々家の跡継ぎなることに自分の存在意味を感じているらしい。勿論、そういうたぐいの継承性を美談とする例えば歌舞伎の名門一族、あるいは山口県辺の代々政治家一族などが大いに権勢を誇っているのだが、これらは大体において「権威」「権力」の伝承に基づく利益集団である。

 それは、この際別な話題であるが、ともかく家を存続させるというのは、この辺りの噂話の無責任意なㇾベルの情報を勝手にまとめると、どう上手に遺産を継承するかという問題に置き換えられるようだ、先にあげた女性も家名への拘泥は、遺産相続を独り占め、独占的にやってしまいたいということにほかならないという噂である。今更のことではないが。またまた、話題が逸れて生臭い。

 元に戻すと、要はもはや、家族の在り方の変化に伴って盆の行事も変わってしまったし、これからも変わるだろうということだ。お寺の宗教性も薄れ続けていて、お盆の仏教的な意味づけなんて、もはや文字どうり空念仏だと云ってしまったら、語弊があるだろうか。施餓鬼の後、塔婆を頂きにあがるのだが、戒名の固有名詞以外のところに誤字があったりした。勿論、塔婆料だって安くない。お寺離れが進むはずだ。第一に我がお寺さんの坊さんの読経の聞くに堪えないのが、ね・・・・。

 またまた、嫌味な話になったので、止める。

 とにかく、自分は、日頃より三宝を貴ぶ仏教徒でありたいと思っているので、残念な気がしてならない。

 

〇義父の死後絶えてしまたが、かつての盆の集いは悪くなかった。この地では手打ちうどんは、盆と正月、冠婚葬祭の人寄せでは、フォーマルな食べ物であった。代々の主婦の手打ちである、「手打ちうどん」は昔風の土地言葉では「てぶちめんこ」であるが。故に子供たちは、「ばァのめんめん」と云っていた、伝統の家の味であった。それも、今は誰も受け継いではいない。

 

盆ならば寄つて笑つて家うどん