薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

時間がすべてを解決してくれるという人もいた。

 リタイヤして以来、「年度」という時間尺が意識されなくなった。だから今日で年度終りと思い起こしても、何の感想も浮かんでこない。

 それは、ここでも何度か云っているかも知れないが、まさしく光陰は矢の如くであって、その矢のスピードか、年を追って加速してくる。寿命が尽きる日に近づけば近づくほど加速度が上がるのだろう。

 そうであるから退屈などしている閑は無いはずなのだが、急ぎの用事もまた無いのだ。

 この時期は、明けても暮れても桜の話題、そして今年はWBC優勝の祝賀気分覚めやらずの内に、三月が尽きた、まったくもって脳天気にも。

 

 

 

 

 コロナは日々の死者数がゼロになった例はあるのだろうか。それでも、コロナ以前の日常へと回帰しつづけていて、そうなれば危機感が薄れると同時に、コロナパンデミックのこの間の記憶も遠いものになって行くに違いない。

 その昔、スペイン風邪の流行もあったし、コレラの大流行あった。その昔と云うが、大正時代のスペイン風邪では45万人ほどの死者が出ている。また、コレラでは明治年間では8次、大正年間では2次の大流行があったのだが、これも歴史的事実としてさえ、今の自分たちには全く聞こえてはいなかった。

 同じように、今度のパンデミックも、アベノマスクの愚策も、忘れ去られて行くのであろうか。

 それでも、近所へ花見に出かけてみると、大方の皆さんがまだマスクをきちんとつけている、斯く云う自分もそうなのだが、今のところはまだパンデミックの記憶は生々しいのだろうか。だが、この現象は感染予防という意識からでなくて、もっと別な要素によって引き起こされているような気もする。

 ともあれ、この国の人は忘れっぽいのだ、いや忘れてしまった振りをする。「時間」がすべての悩みや苦しみを忘れさせてくれるわけではないと知りつつも、「時間」こそ癒しと感じているのだろうか。だが、それはどうも違うであろう。みんな、へらへら笑っている間に、平穏な日が重ねられる、そんな風になってはいないだろうかと。

 

 なんだか、ぐだぐだと小言ばかりの爺さんになってきたようだなあと、我ながら嫌になるのだが、哀れな爺さんになり下がった自分は、痴呆化進行中でありますので、愚言の数々、お見逃しください。

 

     

俺だよにあれどちら様三月尽   泡六

 

手のひらへ散る花びらは何グラム

 

うたかたのかつ消え結び年度尽