薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

床屋さんのおばちゃん

 

 ここに転居して、30年以上が経った。

 その間、行きつけにしていた床屋さんが開店休業中である、再開の予定はいまのところないのだ。

 初期の頃は、当主のおじさんが調髪担当で、おかみさんはシャンプーと髭をあたる担当という分業体制であったが、いつの頃からだったか、おかみさんが全工程をひとりで担当するようになった。おかみさんと云っても、おばちゃんというにも、かなりの齢を重ねていて、むしろおばあちゃんというのが、リアルに近い。

 そのおばちゃんが、倒れてしまったのだ。

 もう一方のおじちゃんはというと、もうしばらく前から鋏を手にすることはなくなっていた。順番待ちのお馴染みさんと店先でお茶を飲んで、世間話に花を咲かせるのが、仕事の如くであった。

 そうしたわけで行きつけの床屋さんが休業してしまったので、困ったことになった。    地域の理髪店をネット探ると、かなりの数があるのでたまげた。これで競争をしていたら、高齢化著しいこの地域では共倒れでないかと、部外者ながら心配になった。

 そこで、選択の基準として近いということを第一にあげた。するとシニアは、税込み2200円という格安の店が上がってきた。自分は知らなかったが、この地で10年以上開業している個人営業の店であるとのこと、口コミも好意的であった。

 噂にたがわずと良心的な仕事ぶりであった。費用対効果は、このごろはコストパフォーマンスとか云うらしいが、十分満足できるものであった。客の要望を聞きつつ、短時間に、さくっと仕事をしてくれた。仕上がりも、不満な点はなかった。しばらく、この店にしようと気持ちが動くのだった。

 そうであるが、なんとなく物足りない気がした。その理髪店は、いわば効率優先の営業だから事務的な印象を受けた。要望は聴くが、会話はない。

 そこへゆくと床屋のおばちゃんは、話し好きでその時々の時事ネタは勿論、町うちのこもごもの変りぶり、そこまではよいのだが、日々老いが進行するにつれての嘆きや心配事やらを、縷々耳元で語りかけて来る、それには弱った。適当に相槌をうったり、慰めたりするのだが、こちらの気分まで沈んでくる。老いた者同士の世間話とは、そうしたものだろうか。

 そんな様子であったから、必要なことのみの意思伝達だけの理容店は、終わってみると少しばかり、物足りない気がするのだった。安価な料金なら客の回転数をあげて利益を上げる必要がある、だから接客も効率的に、無駄話の余裕はないだろう、それはそれでよく分かる。それに、濃密な接客には辟易するものとしても、気ごころを通じ合う商いと云うものは、廃れていくのだろう。

 おばちゃんの復帰が待たれるのだ。

 

 

この春やサインポールは停止中  泡六