大根の間引き菜
10月21日(土)晴れ、北から強い風。冷たい、隣家のハナミズキの葉が、赤く色づき始めた。
〇畑では、大根と白菜の間引きが始まった。さっさとしてしまえばよいのだが、元気のよい株を選ぼうとしてもこれが、つい迷いがちで、目に見えて貧弱なものから間引いてゆくのだが、つい翌日回しにして、なかなか間引ききれない。
間引きとは、どういうことかとというと、概ね次のようなことだ。
『例えばダイコンなどを栽培する場合、最終的には個々の植物の間がある程度開いていないとよく育たないが、苗の頃には逆に互いに寄り合っていた方が育ちがよい。そのような場合、ある程度密集した状態で苗を育て、育つにつれて苗を引っこ抜いて互いの間を開けてゆくことが行われる。この作業が間引きである。通常は弱いもの、細いものを抜き取るが、あまり大きすぎるものを抜く場合や、曲がっているなど形の悪いものを抜く場合もある。・・・・。なお、ダイコンの場合、間引かれたものは野菜として使われ、間引き菜(まびきな)と呼ばれて販売もされている。』(ウィキぺディア より〙
まさしく、そういう作業である。大根の場合、ポリエチレンの黒マルチシートで畝を覆い、直径6センチほどの穴を開けて、そこに4粒の種を蒔いた。発芽率は80%程度であるから、大体はほぼ4つから発芽する。であるから、4分の3が間引かれるのである。一本の大根育てるために、3本の苗が捨てられてゆくのだ。
一方で「間引き」という言葉は、悲惨な「記憶」も呼び起こす。
胎児、嬰(えい)児を人為的に殺す人口制限の手段を、農作物などの間引きになぞらえていう。よばい、強姦、不義密通など婚外婚によるもののほか、貧困によるものが多かった。とくに江戸時代中期以降、貢租の増徴や飢饉などで農民生活が苦しくなり、口減らしのための間引きが少なくなかった。領主は労働力の減少、田畑の荒廃を恐れて、しばしば禁止令や赤子養育仕法などを出して防止に努めたが、明治時代まで続いた。当時は妊娠以前に産児を調節する知識や技術が乏しかったから、妊娠または分娩後に間引いた。妊娠中の手段としては、もみおろし(腹をもむ)や、ほおずきの根を差し入れて流産を促させ蒲団で窒息させたり、臼(うす)ごろといって石臼で圧殺したり、紙はりといってぬらした紙を顔にはって窒息させたりした。たいてい取上げ婆(ばば)(免許制以前の産婆)が処理した。霊魂信仰の考え方では、成長に応じて次々に霊魂を付与し人間らしくなっていくので、胎児、嬰児、幼児の人権は重視されていなかった。妊婦、産婦の心情はいまも昔も変わりがないが、社会的な人権意識が足りなかった。間引いた子は自宅の床下や縁の下に埋める例もあり、生まれ変わることを期待する気持ちがあった。間引きのことを「返す」「戻す」などというのはそのためであり、桟俵(さんだわら)にのせて川に流す例もある。
[井之口章次]日本百科全書より
記憶しておくべきことの一つだ。
今夕は菜飯よからん妻に告ぐ 泡六
間引き菜をひとつかみだけ持ち帰る
早や萎ゆる間引き菜を浸けおかむ