薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

毎朝、鵯餌を食べに。

一月十日(水) 晴れ、日中はやや暖か。

 

〇災害関連死とされる方がいる。熊本地震では、亡くなった方が237人、その内避難生活中に命を落とした方が281人、この方々が災害関連死だった。このことは当時大きな話題となったが、その教訓が能登半島地震で生かされるだろうか。

 学校の体育館のフロワー、あそこで横になって厳寒の夜を過ごすことの辛さを想像するのは容易なのだが。

 気を揉むことだけしかできない。

〇その後、鵯は毎日やってきている。

 今朝は、萎びた林檎であるが、枝に突き刺してから30分も経たずにやってきた。

 

 

 だが、まだ警戒している。

 一回目の飛来は、餌の確認らしい。数分とどまってあわただしく飛び去る。

 それから、次の飛来まで3、40分はある。この間、遠くから餌の周辺を安全かどうか偵察しているようだ、隣家の柿の木あたりで待機しているに違いない。

 二度目は、軽く餌を啄みながら、きょろきょろとあたりを見回して、落ち着かない。が、ガラス越しにカメラを向けられていることには気づいていないようだ。

 朝方は、そのように何度か、来ては去り、来ては去りして餌を食べてゆく。

 そうして、日暮れ前、またやってくるのだった。

 

 

〇生きものは、懸命に生きている。

 のに、自分ときたら・・・・。  

 

去年今年寝ては覚めして十日なり  泡六

 

 

目白

2024年一月九日(火) 晴れ、最低気温マイナス3.3℃

 

能登半島地震の詳細が徐々に報道される。ことばがない。

〇そんな中、株価がバブル後の最高値を更新した、そういうことには不案内ゆえか、気味悪さを感じる。庶民の生活感覚とかけ離れている。

〇まったく信頼のおけない政権与党、一方で検察のリーク情報に乗せられている我ら。

 

〇墓参。生きていれば41歳になった子の命日。

 寺の駐車場を囲む日当たりのよい繁みに目白の群れがやって来ていた。

 

 

 

 

初春や世はこもごもと目白来る  泡六

 

 

 

霜枯れのピーマンと向日葵のこと

2024年一月八日(月)晴れるも、凍えそう。

 

〇松明け。

 不穏な年明けであった。

〇畑に出て、昨年から放置してあったピーマンと鷹の爪を片付けた。

〇ピーマンは、霜に当たりながらも実をつけて、それを先日暮れにやってきた孫が採って、そのまま口にした。慌てて止めようとしたが、むしゃむしゃと食べてしまった。その孫は女の子で、三歳である。

 「おいしいの」と聞くと、にこにこ笑って「おいしい」という。普段の食卓ではそれなりに好き嫌いのある児である。

 子供の味覚というのは、人がもともとに持っている能力であるだろう。それがまだ残っている。だが、大きくなるにつれて舌の感覚が退化し、多様な味覚を感じることができなくなってゆくのかも知れないと思った。そのことを思い出した。

〇先に紹介した向日葵であるが、暮れも押し詰まった頃、すっかり枯れ果てた。さすがに、生きて延びて年越しは出来なかった。

 

 

 それでも、こうして色を残している。

 

 

 もしかして、種子も。

 あれば、保存して、来年蒔いてみよう。

 

 

 幾霜夜越へども結ぶ種子のあり 泡六

松の内も今日まで

一月七日(日)晴れのち曇り。

 

〇朝、七日であるから、七種粥を炊く。食べて邪気を祓ったのであるが。

 

人日や粥腹すぐに空きにけり  泡六

 

 七種粥を食べるのだが、正直うまいものではない。

 それは、セリ、ナズナゴギョウハコベラホトケノザスズナスズシロの七種であるが、スズナの蕪、スズシロの大根、それにセリこの辺りは野菜と言えるのだが、あとは野草である。

 けれどもそれら野草を、多分「若菜」と呼んだのだろうと思うと、ゆかしいような気がする食べ物に思えてくる。

 

 一茶の句にこうある。

粥釜を洗ふて待つや野はわか菜  一茶

 

「人日(じんじつ)」と云うのは、一月七日を指し示す季語である。

 

〇関東では7日までが松の内とするのが、一般的だと思う。年神さまを追い立てるわけでないが、日が変わるの待たずに、夕刻には門の松飾を撤去した。

 この周辺で、門松をたてている家は、我が家の他にはたった一軒見かけただけであった。ちょと物寂しい気持ちがあった。

 

 

 正月はおしまい。

 

 松過ぐや能登には雪の降るという 泡六  

 

 

お断り

日記風の仕立てになっておりますが、お目にかけるのは大体一日遅れになります。翌日になって前日を振り返って書くものですから。

 

 

だるまと観音

2024年一月六日 土 晴れ、暖か、日中の車中では妻は暑いと言う。

 

能登半島震災、胸が痛む。まっとうなSNSから伝え聞く限り、マスコミは現地の窮状を伝え切れていないように感じる。世論の高まりが国を動かす力になる、役割を果たしてほしい。

 

〇よい天気になった。別にお正月気分に浮かれているわけでないが、というより気分は停滞ぎみであるのだが、すこし車で遠出しようと妻に誘われた。昨年暮れから正月、子や孫が帰って来るのはジジババの楽しみであるが、それでも、あの者達を御接待するのは疲れるのだ。そういうわけで、ようやくほっとして、ドライブしようとなった。

 

群馬県高崎市の小林山達磨寺のだるま市へ。

 



 

 上州では有名なだるま市である。

 

〇此処少林寺は、縁起だるま発祥の地であるそうだ。

 天明三年の浅間山大噴火とその後に続いた飢饉に疲弊しきったこの辺りの農民救済のために、中国禅宗の開祖とされるインド人僧侶菩提達磨をモデルとして、赤色の張り子の人形を縁起物として作ることを、この寺の九代目の住職が土地の人に教えたのだそうだ。それが一月七日の七草大祭の時に、養蚕の守り神として売られた。その後、縁起物の福だるまと変わっていって今日に至ったとか。

 天明の大噴火の痕跡は上州一帯どころか自分の住む利根川中流地域まで及んでいて、非常な災害であった。目下の能登半島地震もそうだが、自然災害が与える苦難というのは、今も昔も筆舌に尽くし難いものだ。だるまと言えば「七転び八起き」というが、元々がそんな意味合いで苦難に立ち向かい克服を祈願する縁起物であったのだろう。

 

 

〇だからといって、自分のことで言えばそういう縁起物を身近に置いたり、身につけたりすることは全くない。理由は、一つ信じられないからだ。

 

〇さて、このお寺、とても眺望がよいのには驚いた。

 ともすれば、この目前の平穏に溺れそうになる。

 能登半島はどの方向かも分からない。

 

 

ひとまずの上州連山だるま市    泡六

 

両目明け達磨仰ぐや白浅間

 

 

 

〇帰路、高崎の白衣観音にもお参りした。

 多分、五十年余り前に、訪れたことがことがある。

 思い出話が半世紀前に及ぶというのは、当の自分でも妙ちくりんな気分がするものだ。

 妻の話では、恋人同士でここに来ると必ず別れることになると、云われていたのだそうだ、「観音様が嫉妬するのかしら」というので、「観音さんは人助けの仏さんだから、そんなことはあるまいよ」と、答えて置いた。

 もしかすると、案外身に覚えのあることなのかも知れないと、つい横目で窺ったしまったが、そこにいたのは古希の人であった、とさ。

 

 

 

 

 

 

さうが