じゃがいもの植え付け、やや遅めか。
じゃがいもの芽は、霜に当たるとよわってしまうので、遅霜を警戒して、桜が開花する頃に、芽が出るように蒔きなさいと言われている、今年はこの陽気で開花が早まるらしい、そんなこんなで、ようやく準備が終わって、明日植え付けをする。
種芋は、50グラムほどの大きさでよいと聞いているので、100グラム以上のものは、切り分けるのだが、その切り口から細菌感染を防ぐための草木灰を付着させるのも一般的に行われている。画像は、その状態で今日一日、天日に干すのだ。
じゃがいもは馬鈴薯と呼ぶと、ちょっと聞こえがよくなる。だが、よく知られていることだが、牧野富太郎博士は、じゃがいもを「馬鈴薯」と呼ぶのは大きな過ちで、断じて「馬鈴薯」は異なる植物であり、こんな間違いを流通させているのは、日本文化の恥辱でなくてなんであろうと、悲憤慷慨のご様子である。その論理展開は、牧野富太郎「植物一日一題」(青空文庫の所収)でご興味があれば、どうぞ。
自分も、実を云えば牧野先生のご説にはかかわりなく、馬鈴薯はピンとこない、じゃがいもがよろしい。さつまいもも、甘藷というのしっくりこない。「馬鈴薯植う」は春、「甘藷植う」は夏の季語になる。ちなみに、馬鈴薯は種芋を撒き、甘藷は苗を植えるので、同じ芋でも植え付け方は異なる。
牧野先生は、こうもいうのだ。
ジャガタライモは、今世間一般の人が呼んでいるようにジャガイモと仮名で書けばよろしい。もしこれを漢字で書きたければそれを爪哇芋か爪哇薯かにすればよい。なにも大間違いの馬鈴薯の字をわざわざ面倒くさく書く必要は全くない。いったい植物の日本名すなわち和名はいっさい仮名で書くのが便利かつ合理的である。漢名を用いそれに仮名を振って書くのは手数が掛り、全くいらん仕業だ。例えばソラマメはソラマメでよろしく、なにも煩わしく蚕豆と併記する必要はない。キュウリはキュウリ、ナスはナス、トウモロコシはトウモロコシ等々で結構だ。胡瓜、茄、玉蜀黍等はいらない。(「植物一日一題」)
この見解を、俳句詠みの方々で容認するひとはおるまい。一歩間違えば言葉狩りだと炎上しかねない。余りに合理主義的なご意見でないかと。この意見に従えば、こんな句へも影響がある。
をととひの糸瓜の水も取らざりき 正岡子規
一大事も糸瓜も糞もあらばこそ 夏目漱石
「糸瓜」を「ヘチマ」と表記するのはまずないが、平仮名で「へちま」としても、句にしまりが無くなる感じがする。俳句は文字で表記される、その文字の見た目というのは、表現の一部となっているようだ。
だが、漢語による表記には、慎重になることも、大切かも知れない。そこからいえば、馬鈴薯よりじゃがいもが、自分には親しみがある。
さて、じゃがいももさつまいもも、飢饉に備えるために奨励された、それはわららの祖先だけではない、世界中にあったことだ。
明日は3月11日、どのようなことも起こりうるのが世界である。
日はめぐるじゃがいも植ゑよ馬の骨 泡六
じゃがいもの芽に救荒の意思尖る
ひもじき子甘藷馬鈴薯腹満たせ