薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

読書の春がやってきたような気がする。

 

 何事にも、「波」というのはありがちで、いつまでも好調とか永遠に不調というのは、ないこともないが、大抵は交互にくるような気がする。そうでなければ、浮世は不公平極まりないものになる。まさしく祇園精舎の鐘の音であって、盛者必滅の理から逃れることは、ほぼできない。無常というのは、弱き者にとっては、絶望であり希望でもある、そう常々思ってきた。

 

 さて、春めいた陽気になって、体調がよくなってきた。年をとると寒さも暑さも体に良くないに違いない。そんな感じでいたら、少し忍耐強く文字を読めるようにもなった。少しまとまったものを読み通すのが、だんだんとできなくなっていたのだが、先だって劉慈欣の「老親介護」をペロッと読んでしまった。しばらく前「三体」にとりついて、100ページにも届かず放り出したのとは、違った。こちらは中短編集であるから読みやすさもあるのだが。それからちょっと気をよくしている。

 

 今読んでいるのは、東洋文庫版の「蕪村句集講義1」。

 鳴雪、子規、碧悟桐、虚子、露月らが、明治31年1月から32年2月に至る間、子規の根岸の家に集まって、蕪村句集を輪講したものを、「ホトトギス」に連載した、それを一冊にまとめたものが底本では「冬之部」とある。つづく、「春之部」は、32年3月から33年6月まで連載とある。東洋文庫版の「講義1」は、冬全部と春の一部が収録されている。これがね、子規以下の面々が言いたい放題で、楽しい。そこで、自分のへぼな句作りの参考になるような気もしたが、自分の無学なおつむでは消化しきれない、故に読み齧りでは役に立てられるはずがない。これも、へーそうですか、てなことで読んだそばから忘れてしまうだろうなと認識はしている、でも、読んでいて楽しいのである。

 

 大体、自分は物知りになろうかとか、人生を学ぼうとか、何かに役立てようとか、そういうつもりで本に触ることは、30代頃には止めているのだ。一時でも瞬時でも面白ければ、それでよい。職業上必要な参考図書であれ、当面の問題解決に役立てた後は、忘れているのだ。ものを書く人にはそれなりのモラルがあろうが、読者は、完全にフリーであっていいのだ。

 

      

スパゲッティ茹でる間も惜し春読書  泡六

 

 

 

     

 

 

 白菜の花芽のパスタ、塩と鷹の爪と胡椒とが相乗してピリピリし過ぎになった。

 ☆はゼロ。