賀状と初詣
2024年一月二日 火 晴れるが、薄く曇りがち 気温もほどほど。
〇年賀状が年々少なくなる。それは当たり前で、賀状をこちらから差し出すことを止めたからだ。届けば当方も賀状はお返しするのだが。そもそもが賀状のやり取りをするのが気が進まないのである。
リタイヤ以後かつての仕事関係者はどうでもいいし、さらにある程度年齢になって以降、「友人」という存在を特に求める気持ちが薄らいだ。根が薄情にできてるのだろうろか、俺は。特定される他者への興味関心が薄い、いやない。
世の中には知人や同僚の動静にやたら詳しい奴がいる。また、地元民の中には隣近所の家々の家族構成から血縁関係、就職先、子供たちの進学先から学業レベルまで熟知してかのようのように語る人がいる。いったいどこでそんな情報を仕入れるのだろう。
そういう詮索好きの気が知れないが、年賀状というのは、そういった情報の一端が見て取れる。わざわざ近況報告をしてくる人もいて、これも気が知れれない。個人情報がずだ漏れである。多分、物知り事情通の人々は、年賀状が大好きなのだろう。
ところが、小生にとっては、そういうのが、「めんどーくせー」とうわけだ。
〇ここに至って、たまたまここまで目にしてしまった方は、小生のことをなんて嫌味な奴だと、哀しい人間だとお思いになるに違いない。だが、それはそれで、致し方ないのである。
〇そんな人間であるが、案外と神仏には謙虚なのである。
だから、初詣を欠かすことはない。
あなたの宗教は何ですかと問われたら、「仏教徒」と答えたいと思っているが、これまでだれからもそんな質問を受けたことはない。だれもそんなことに関心はないからだ。
我が家の墓は、真言宗豊山派のお寺にお願いしている。だから、自分が死ぬと戒名はそこの住職さんが命名する。戒名料は近隣相場よりも高いと聞く。そういうわけでちょっと気が進まない、それだけではない、この寺の跡取りのお経が聴くに堪えられないからだ。あれでは、成仏するのに難渋しそうだ。弱ったものだ。
・・・・・、いやいや、仏に帰依する者が、お坊様の悪口を言ってはならないのだから、前言は撤回しよう。
さて、本山は初瀬の長谷寺、この秋も夫婦してお参りした。ここまでお気づきだろうが、縁はあるのだが信者であるという気持ちはない。とはいえ、弘法大師には惹かれるところがある。惹かれるのは空海だけでない、最澄、法然にも親鸞にも日蓮にも、その他のお坊さんたちにも、言うまでもなく第一はブッダであるが。
〇初詣に行く先々で手を合わせるのだが、家内安全や病気平癒や商売繁盛を願うことない。寺々のご本尊の名を唱えさせてもらうだけだ。昨日の初詣では、南無釈迦如来と三回唱えた。
神社の場合も礼と柏手、礼で終わる。
〇というわけで、小生は漠然とした仏教徒である。まあ、テキトーといえばそれまでだ。
〇そういうわけで、コロナ以前は初詣のはしごもした。
初詣先ずは聖天あと稲荷 泡六
〇いい取り合わせだと思いませんか。これまでの、話の流れからはずれますが。
〇お稲荷さんであれば、伊勢崎市にある赤鳥居のトンネルの参道に並んで参拝する小泉稲荷神社が楽しい。来年あたり又行ってみようかと思う。お供えの「油揚げ」の数も半端ではないのだ。