薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

麦の熟れる頃

夫婦ともに70歳を迎えることができた。連れ添って40年を過ぎている。子供たちが先の日曜日、妻の古希の祝いをしてくれた。四国の旅は吾ら夫婦のイベントであったが、孫たちと家族全員が笑顔で集えたのはうれしいことであった。

 

そうして、また二人暮らしの日常がこれからも続くのだが、少し散歩の足を延ばすと、刈り入れを待つばかりとなった一面の麦畑である。

 

 

この辺りは、米と麦の二期作の地域で、麦の収穫を終えてから稲作の田植えが始まる。

そうした麦畠の間をうねうねと用水が流れ、ところどころに欅の高い梢が見え、そこに集落がある。それがこの辺のいわば原風景である。

 

   

 

そうして、その麦作の風景に数列の送電線鉄塔がみえる。この電力の源の一つは、遠く只見川水系からだと聞いている。

 

 

麦熟れて食うための口数多なり  泡六

 

そういう地域であるから、うどんがほぼ主食といえる地域であった。一昔前までほぼ毎日うどんを食べていたという話も聞いている。ハレの日、ケの日を問わず農家の主婦たちはうどんをぶっていたのだった。「うどんを打つ」というのを、「うどんをぶつ」というのだ。妻の実家はそうした食習慣が残っていた家で、結婚当初元旦からうどんを食べるには驚かされた。朝は雑煮だが、昼、夜のどちらかにうどんが出て来るのだった。

 

この四国の旅行で、一度きりであったが栗林公園近くの製麺所のセルフ式の讃岐うどんを食べた。讃岐うどん自体は全国展開のチェーン店が住むあたりにもあって特に珍しいというわけでもないが、香川県に行ったならうどんは食べざるを得ない、土佐では鰹を無視できないのと同じである。地元の勤め人の昼食時分であったので混雑していた。そこに我らと同様な観光客が混じっていのだが、注文の仕方はチェーン店とほぼ同じであったのに、なんだか緊張した。よそ者である。かけうどんの大を頼んでしまって量の多さに往生した。トッピングのかき揚げも大きくて食べのこした。旅人とはそういうものだろう。

 

うどん県を標榜する讃岐うどんはもっともメジャーなご当地うどんであるが、全国各地には名高いうどんがある。埼玉では昔から加須は有名であったが、このごろは自分が住む熊谷市でも「熊谷うどん」を売り出し中であるし、隣の深谷市は「煮ぼうとう」で知られている。

別に讃岐に張り合おうなんてまったく思ないが、日ごろ親しんだ味というのは、人の味覚に深く浸透しているもので、讃岐より北埼玉のうどんのほうが、自分の口には合っていた。

もともと自分はうどん好きではない。駅の立ち食いでは必ず蕎麦であるし、蕎麦屋にいってうどんを注文したことなど一度もない。それでも、結婚以来うどんに親しむ羽目に陥った。義父などはうどんについて一家言を持ち、伝統の食事におおいに誇りすら抱いていた。そんなこんながあって、うどんについての不平不満を口にするのを慎むようになったのだった。

この辺りのうどんは、いわば笊うどんであるが、そのうどんがつけ汁のおすましの椀にちょうど合うほどの量にまとめられて大きな笊や皿に盛られてくる。その椀一杯分のまとまりを「ボッチ」といい、当地の老人たちが若かりし頃は、そのボッチをどれだけ多く食べられるかを競ったのだそうだ。

盆や正月の人寄せの日の親戚一同揃っての食事では、叔父たちの間で、そんな自慢話に花が咲いたものだったが、今はそれもなくなって、寂しくなった。

 

亡義父のお決まりの一言。

夏なれば昼餉うどんの上はなし  泡六