薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

畑で遊ぶ

 

 畑に出た。

 

 

    春耕のつもりに来しが畑遊び  泡六

 

 

 雪解けで畑が潤っていることだろうと思って、久しぶりに鍬を担いで畑に出た。

北からの風はあったが、日が差しているので寒さはそこまではない。

大根を収穫した後を、鍬で耕す。ひとしきり鍬を振るうと、やはり息が上がってきた。

腰を下ろして休むのは、かえって体を冷やすだけのように思えたので、猫の額ほどの畑ではあるが、隅から隅まで細かく観察し始めると、これが意外に時間を要する、いうなれば、暇つぶしにもってこいなのだ。

 雑草と野草の違いは、人が管理している場所に生えるのが雑草、管理外の土地に生えるのが野草というのだと、どこかで聴いた。このでんで行くと、畑の草はすべて雑草だということになる。「若菜摘み」というのは、七草粥に炊き込む野草をつみに野原に行くということだが、もっと広く「野遊び」という季語もあって、これには草摘みも含まれているようだ。そういう野の草は「野草」と言われ、人に嫌われることもなく風流の対象にもなっている。同じ草でも、生まれ育つ環境で差別されている、人の世に似ているではないか。

 自分の畑での暇つぶしには、その雑草がいい味を出してくれる。コンチクショウとばかりに引っこ抜く時もあれば、今日はなんだか漸くに緑が見えてきた薺やオオイヌフグリの花、タンポポのロゼットなどが目を楽しまさせてくれる、ひと時浮世を忘れさせてくれたのだった。野遊びならぬ畑遊びであった。