薺句帖

余生の洩らし言、「薺」とは、「なずな」あのペンペングサであります。誤字脱字の常習ゆえ、気になさる方にはお勧めできません。

正月の浮かれ気分も何処へやら、はや三日

 

 

 

  今年の抱負は?というおきまりの愚問がある。

 以前、しきりに「自己実現」というワードが目立つ時期があった。この語の正確な意味は知らないが、字面だけみれば「本来の己を実現する」ということになる。「本当の俺」?、筆者にとっては雲を掴むようなことだが、案外世の中の少なからぬ人の心中には、「実現したい自己像」のイメージがあるらしい。

 仮に、有名校に受かって卒業してゼニになる仕事へ就いて、安楽と冒険を楽しめる「私」になれるはずの「自己」というのを基本形だとしたら、どうも分からないのは、おおもとの「私(自己)」という奴は、一体何者だと、認識しているのだろうと思うのだが。

 筆者のなじみの理髪店の当主は大病を患って以来、来る客来る客と近所の噂話をするだけだ、そこでハサミや剃刀を使うのはオカミサンだけになった。この人は、八十歳を越えている。だいぶ意記憶力が衰えて、「この前と同じ感じでカットして下さい」というと、「この前」を記憶していない。この店に通いはじめて三〇年ほどになる、その間小生の髪型に、さほどの変化はない。でも忘れている。

 そのオカミサンは、しばらく前から筆者にご自分の身の上の愚痴を、散髪の間中ぽつりぽつりと語るのだ。散髪料は世間並だが、技術的には若い人には及ばないだろうが、それなりに自分では出来ていると思うのだが、客足はこのところ激減して、僅かながら料金値下げもしたが効果が無い、高齢化した客層故に自然減も馬鹿にならないようだとか、コロナ以来気遣いも増えて、・・・・と。

 個人的には、八〇過ぎたら、子や孫に囲まれ労れて、大きな悩みも無く、世間体良く暮らせていいはずだが、そんあこんなが何一つ満足出来ることがない。それに髪は抜けてどんどん薄くなり、・・・・・・。

 

 そんな理髪店のおばちゃんは、そう愚痴りつづけながらも、八十歳過ぎた今も、なってみたい本当の「自分」の実現を一〇〇セントあきらめてはいないのだろう。

 

 でもね、自分のことで云えば、「可能性を孕んだ本来の自分」という幻想など随分若い頃から持ち合わせてはいない。それはなぜかいうと、ねっこの「私」というものにむきあおうとすればするほど、なんともうさんくさくて信ずるに足りないと思い知ったからである。そんな自分であれば、おつむの程は並々、運動神経は下、意志薄弱、故に学歴と云えば、ひいき目にみて並の下、その程度のひとであると繰り返し繰り返し査定され続けてきた俺だからというわけでない。そんな他者からの眼差しに規定されてのことではなく、こう云ちゃなんだが、不断の日々の自己点検の結果としての認識である。自力で気づいた自覚したことである。

 

 だから、古希すぎても生きていて、雨風しのげて、三度の飯が食えて、家庭があって、こんな愚ログで遊べるいるのは、自分にとって幸運と云うほかない。自己実現もへったくりもない明日食って飢えないでいられるだけの稼ぎするというのが、生きてきた原則である。それに団塊というのは運良く恵まれた時代の生きものだった、そのぶんだけ腐って行くのも早かったのだが。

 

 そういうわけで、年頭の抱負なんて、アホくさくって・・・。

 

 

  

 焼酎一杯ぐいーっとやって気絶する   泡六